声を訓練することは、“再生の過程”。
ボクがかつて発声について学んでいた師匠の下では、一連の体操があって、来る日も来る日も身体を動かし続けていた。
その後、クラシックからは離れたけれど、逆に「週に9回本番の舞台に立つ」過酷な現場で勝負するミュージカルの世界に移ったことで、かつて身につけた土台が自分を助けてくれた。
現役のプレーヤーとして15年、その間1,500回以上舞台に立たせてもらったけれど、いわゆる「喉を壊す」ということは一度もなかった。
これは、師匠の下で来る日も来る日も文字通り“身体を使って声を出す”ことを実践していたからに違いない。
呼吸の足場枠
その基本となる考え方は
- 人間誰しも「歌う能力(機能・素質)」を持っている。それを解放してやるべきである。
- 「呼吸の足場枠組」ともいうべき呼吸機構は、ある固定した姿勢によるものでなく、運動の中から獲得すべきものである。
だった。(この他にもベースとなる考え方はあるけれど)
言い方を変えれば、
「リラックスして」
「動き続ける」
ことで、自分が抱えている声の問題を解決していくということ。
これは、「自らの呼吸で自らを解放していく」とも言える。
要は、「歌が上達するために」というよりは、
「その人が持って生まれた本来の姿を再生するために」
といったような、スケールの大きな哲学がその根本にあるのだ。
作業レベルに落とし込む。落とし込んだら繰り返す。これがトレーニング。
兎にも角にも、体操。
そして、レッスン室に入れば、部屋の対角線まで利用して、距離(目標地点)と意思を伴った状態で息と共に動きながら声を出す。
固定した姿勢で歌うなんてことは一度もなかった。
「ここを、ここからここまで、こうやって動かしながら、声を出せ。」
そんな風に教わった。
時には「違う!!!」の怒声と共に、平手打ちなどくらいながら…。(苦笑)
試験の時には、レッスンで開放感と共に出た声に「それ!!」と言われた時と
「同じ声」を出そうとはせず、「同じように身体を使い切る」
が目標だったように思う。
そのために、その運動のスタート地点、zero、neutral、relax、を掴むための“自然体”だったし、
(今にして思えば)status、posture、そしてmovementを追いかけるように指導を受けていたのだ。
積み上げるのが“稽古”。その結果得るのが“気づき”。
当時出版された、さまざまな声楽指導者のメッセージを集めたシリーズ本に書かれていた師匠の言葉を思い出す。
「稽古とは 一より習い十を知り 十より還(かえ)る 基のその一」
いや、今思えばものすごいレッスン受けてたな。
あそこに辿り着いた自分を褒めてやりたい。
そして、感謝したい。
あの頃の自分に、師匠に、ご縁に。
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