“芸といふものは、実と虚との皮膜の間にあるものなり” 穂積以貫 「虚実皮膜」
それは、ある作品の関係者の言葉が何故かふと気になったことがきっかけだった。
妙な違和感。
うまく表現のできない、胸のあたりのわだかまり。ざらざらした感じの。
その舞台の(断片的な)映像をいくつか観ながら、その違和感が何なのか考えていた。
それが、ある瞬間「フッと」腑に落ちた。
自分は、「芸を観たい」のだ。
素材ではなく、技術によって紡ぎ出されたある種の美しさをそこに望むのだ。
人が何かに一心不乱に取り組む姿に感動したいのではなく、
どこかその、現実離れした余力のようなものを感じさせる姿に酔いたいのだ。
“一生懸命”の素晴らしさ、“目を見張る成長”のもたらす高揚感、
それらが光り輝く舞台は、それはそれでこの上なく尊いものだ。
しかし、自分が求めるものは…
この世のものとは思えない美しさ。
声かも知れない、身体の動きかも知れない。
その、目の前の(等身大の)人間から発せられる魅力(魔力と言っても良いかも知れない)が、才能のさらに何層にも塗り重ねられてきた奥の奥から放たれる光沢によって生まれてきているものだと知っているからこそ、目を瞑っても尚その輝きをまぶたの裏に描き出せるのだ。耳の奥に蘇らせることができるのだ。
情報として受け取る範疇を超えて、波動として直に受け取る(共振する)。
受容、解読・分析などの経過などない。
その瞬間に、振動体としての自分がそこに存在する。
自己完結。
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