映画のカット割りは、こんなにも「物語って」いた
ここのところ、YouTubeで映像クリエイター系の人たちの動画撮影や編集に関するものを見ることが多い。
昨年からコロナ禍にあって講義というものをオンラインでやる必要に迫られ、とにかく自分の手元にあるものを利用して、舞台やミュージカル(基本的に映像と対極にあるもの)に関する情報を映像にするという経験をしたからというのが大きいと思う。
もう一方で、昔から、ガチガチ文系のくせに機械モノに惹かれ、ガジェット系が好きな厄介な性分だから。
そんなこんなで、動画撮影・編集に関するYouTubeとかを観ているうちに、映画のカット割りというものの果たす役割というか、意味の大きさに気がつき、愕然としている。
「そうか、カット割りというものはこんなにも『物語って』いたのか」
と。
高校まで過ごした田舎には映画館さえなく(幼少期にはあったけど、途中で見事に潰れてしまったのだ。)、「週末ごとに映画を観に行く」ようなおしゃれな生活とは環境的にも経済的にも程遠かった。

日曜洋画劇場みたいな番組も、3世代同居の家庭環境においては先の副将軍・水戸光圀公に叶うはずもなく、どちらかと言うと、映画には奥手だった。
その流れでこれまでの人生で、とてもじゃないけど「数多くの映画」を観ているとは言えない。
映画伝道師にYouTubeで再会した
これまた、YouTubeでたまたま見つけた映画評論家・淀川長治さんの生涯を紹介した映像についつい見入ってしまった。
昔、淀川さんに似てると言われたことがあったっけな、とか思い出しながら、
もっとたくさんの映画を観ていたら、もっともっとたくさんのことを映画から学べたかも知れないなと考えた。
もちろんそれは「人生を学べた」と言う意味でもあるし、同時に「映画の手法について気づけた」と言う意味でもある。
かれこれ10年ほど前、ひょんなことからある映画の劇中劇の部分でお手伝いをさせていただいたことがあった。
高校の演劇部の生徒たちのシーン。
いわゆる助監督という人から連絡が来て、そのリクエストに基づいて劇中劇の出演者たちの動き(舞台で言うところのミザンス=ミザンセーヌ)を付けるというものだった。
そのやりとりと、完成した映画を観て気付いたことは、いかに映像と舞台の創り方が違うか、というもので、自分にとってはかなり衝撃的な出来事として脳裏に焼き付いている。
映像と動画の違い、説明できますか?
そんなこんなで、映像(作品)のカット割り(カメラワーク)については、興味があったり、モヤモヤしたりはしていたんだけれど、自分が一観客として映画を観るときには、全く気にしていなかったというか、意識の外にあった。
(だからこそ、作っている映画のプロなんだろうけれど。)
ここのところ、スティーブ・ジョブズの名言みたいに、その辺りの点と点が結びついて、俄然、映画のカット割りというものに興味が湧いている。
と同時に、動画2.0VisualStoryTellingという本の中で明石ガクトさんが書いていた、
映像から動画への変革において、最も重要なポイントは「情報の凝縮」にある。
の意味がめちゃめちゃ腑に落ちて、プチ興奮状態が続いている。(笑)
なるほど、少しわかってきたぞ。(少しかよ!←独りボケ突っ込み)
舞台、そしてミュージカルの未来にも必須?
これ、これから先舞台作品を創って行こうと考える人も理解しておくべき重要なポイントなんじゃなかろうか。
少なくとも、自分の作品を「多くの人に受け入れてもらいたい」と望む人は。

そんなこんなで、今更ながらたくさんの映画を観たいと思うにつけ、もっと時間が欲しいと思う、そんな日々である。
いやぁ、映画って学べる点がたくさんあるんですね。
それでは、またお会いししましょう。
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。
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