“演じる(演ずる)”ことの本質に迫る

老人は「老人のように歩こう」とはしない

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ずいぶんと大げさな記事タイトルをつけてしまったけど(笑)、最近になって、改めて“演じる(演ずる)”ということについて考える。

もちろん、今更役者としての自分を再び引っ張り出そうとかいうわけではない。

と同時に、おこがましくも、「役者を育てよう」なんて思ってるわけでもない。

ただただ、純粋な興味から。

“演じる(演ずる)”ことのコアな部分について学び、考え、実践することで、人生で達成できることが大きく変わるに違いないことや、今、この時、その一瞬一瞬を最高に充実させることができるに違いないと感じているから。

ただ、そのためには演技“演じる(演ずる)”ことの、ある意味本質的な部分、言い方を変えれば科学的なアプローチ、を捉えられていないことには始まらない。

 

「幾つで作ってますか?」への違和感

今でもはっきり覚えていることがある。

ある時、ある作品の稽古場で、自分より若い共演者から「ヒトシさん、その役、幾つで作ってますか?」と質問された。

その後輩は、自分が演じる役について、何歳ぐらいで、どんなキャラクターか等々について熱く語ってくれた。

 

正直なところ、それに対して、

「そ、そうか・・・君の芝居、そんなことかけらも見えてこないけど・・・な。」

と心の中でつぶやいた。(辛辣な言葉で申し訳ない。実際、どんなリアクションを返したかは覚えていない。)

 

ここが役者の難しいところで、

ノートに何冊分役を練ったところで、観客に伝わらなければ意味はない。

ボクが“役作り”って言葉をどうも好きになれなかった理由はここにある。

本人はのめり込んで作り込んで固め切って、役としてそこに居る・・・つもりになっている。

それは、言い方を変えれば、厚塗り化粧の権化みたいな存在である。

凝り固まっていて、身動きが取れない。

武道でいう、居着いてしまった状態に近いものがある。

打っても響かない、ナチュラルでもリアルでもない。

 

老人は「老人のように歩こう」とは思っていない

のだ。

 

年齢の話で言えば、実生活でも何かの場面で自分の年齢を答える段になって、(全く無意識のうちに)年齢を間違えることがある。

年齢なんて、その程度に主観的なものだし、そもそも、同じ数字(年齢)でも、国や時代によって一生におけるどの時期なのかということが全くと言ってほど変わってくるものだろうし。

“演じる(演ずる)”ことはモデリングだ

最近、“演じる(演ずる)”ことはモデリングだと考えている。

五感を通して、そこに存在すること。

何がどんな風に見えているのか?(自分からの距離は?大きさは?明るさは?)

何がどんな風に聞こえているのか?(自分からの距離は?大きさは?音色は?音質は?)

味は?匂いは?

手触りは?肌触りは?体に触れている部分の感触は?

ビジュアライゼーションなんて言葉もあるけど、それだと視覚情報だけだし、人間って、もっとはるかに立体的な存在だと思うのだ。

その点、自分自身、そういった面、要素、立体性は、かつて舞台に立っていた頃も全然足りていなかったし、今でもまだまだ未開発なままな部分があると思う。

まだ、この先意識して積み上げていけば、変化させられるものだと感じているし、成長していける伸び代はあると直感している。

・・・この根拠のない自信から来るワクワク感がたまらない。(笑)

“演じる(演ずる)”ことの本質は、

人としてこの世に生まれ、そして死んでいくまで絶えず変化・成長を続けるための最高のコンディショニング方法

じゃないかと考えている。

 

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