社会人になって、それも50代で仕事しながら論文書くのは結構キツいと言う現実
「石の上にも3年」
足掛け3年、正確に言えば単科履修の時期を含めると4年の歳月をかけて大学院の修士論文を書き終え、修了した。
(新型コロナウィルス騒動もあって、学位記はまだ手元に届いていないけど・・・)
結論から言うと、
「仕事しながら4万字越えの論文書くのは、正直かなりキツかった・・・」
ぶっちゃけ、自分のヘマもあり、頑張れば修士課程入学後2年(計3年)で行けたであろうところ3年かかってしまったが、それが2年であろうと3年であろうと、論文執筆に関してのキツさはあまり変わらなかっただろうと思う。
選ぶ研究題目によってはもうちょっと効率良く、もしかしたらある意味楽できたのかも知れないけれど・・・まぁ、そんなのはあとの祭りだ。
とにかく「終わり良ければすべて良し」、なんとか終了まで辿り着けたんだから良しとしよう。
今日は、
「50を過ぎた元・実演家の社会人(オジさん)が大学院に入学して修士論文を書いた話」
を書きます。(笑)
なぜ50を過ぎて修士論文を書こうと思ったのか?
思い起こせば20代、大学卒業を前にして大学院を受験した。
結果は敢え無く敗退。
何たって、いわゆる卒業研究も「卒業演奏」であって、論文ではない芸術大学。
歌一本、実力勝負の分野なので、傾向と対策なんてものはないし、指導教官の下、ゼミで少しずつ方向を修正しつつなんてこともない。はい、実力勝負です。
大学院入試ともなれば、その先なんだから、尚更。
で、2年目のチャレンジも粉砕。木っ端微塵。
(あの時には、精神的に打ち砕かれました・・・。)
あれから30年の時が流れ、今更なんで修士、それも論文だったのかと言うと、
- 大学の、しかも芸術の名を冠した学部で教える立場にある以上必要だろうと考えたから
- 芸術と娯楽の境目にあるミュージカルについて言語化できるべきと思ったから
- 単になんとなく興味もあったから
その他にもあげれば出てきそうな気はするが、とにかく
「芸術としてのミュージカルというものを言語化し、できれば定義して、自分なりに納得したかったから」
なんだと思う。
さて、じゃあ実際にどこで学ぶか?
“芸術”ってキーワードで学ぶことを前提に考えると、選択肢はかなり限定されるなぁというのが正直な感想。
後はかかるお金と、何と言っても時間の使い方。
で、いくつかリサーチした結果、まずは放送大学大学院の科目を単科履修してみることに。
ちなみに放送大学の教授陣、特に大学院ともなるとめちゃめちゃ強力な布陣です・・・。
「美学・芸術学研究」
これがめちゃ面白かった。
特にディドロの演劇(俳優)論。
実演家としての自分の現役時に感じていたこと、考えていたこととピッタリ重なり、
「そうそう、そうなんですよ、ディドロ先生!その通り!!」
と胸踊りました。
で、話は端折るけど修士の入学試験にチャレンジして、無事合格。
英語の長文読解に関しては、高校卒業後英語の授業受けてない(大学は声楽科の専門性ゆえにイタリア語、ドイツ語だった)ので苦労はしたものの、ミュージカルの歌詞や資料で英語には多少触れてたので、なんとかセーフ。
50代にして、晴れて学生証を手に入れました・・・。
ゼミでよく通った茗荷谷の放送大学
少年老い易く学成り難し
実際スタートしてみると、文化科学研究科というだけあって、まずはとにかく履修科目の分野の幅が広い・・・。
途中で廃止されてしまったけど、最初のうちは学習センターで放送教材の資料観れたり聴けたりしたので、実際に足を運んで勉強するよう習慣づけてた・・・のは良いのだが、ヘッドフォンつけた途端に眠気が・・・。
周囲を見回すと中高年齢者のお昼寝どころみたいになってるではないか・・・。(苦笑)
自分の研究分野(ミュージカル)に関して言えば、どうしても英語の資料、文献が多くなるので、細切れの時間で勉強していると「前回、どこまで読んだのかがわからなくなる。」のが直面する課題。
物理的な箇所は栞を挟んでおけばそれで済むのだけど、問題は内容だ。
小説のストーリーと違って、「はいはい、そうだったよね。」とはなかなかならず。。。

「少年老い易く学成り難し」とはよく言ったものだ。昔の人はスゴい。(笑)
ただし、毎月開かれるゼミに出席すると、まぁ日本全国から集まった皆さんの知識欲、学習欲に心底驚かされたので、その話を少し。
男性は既に仕事をリタイアされた方も多く、その前職と研究分野が重なっている方もいれば、「え?なんでそのテーマ?」って方も少なからずいて面白いのです。
女性は放送大学の教養学部を終えて、引き続き大学院でご自分の興味ある分野の研究されてる方もいて、訊いてみると「親が大学までは必要ないって」とか「下に兄弟がいたので経済的に大学まではいけなかった」と言うような理由で、子育てを一段落されて放送大学に入学されたような方も複数。
ゼミ終了後の懇親会(食事しながら引き続き論文についてああだこうだと会話を交わしたり、お互いの職業や専門分野について聞いてみたりする)でも、
「こういうの(社会人経験した上で学べる環境)が、大学、大学院の本来あるべき姿なのかも知れない」
なんて話題も出て、改めて“学ぶ”ってことについて考えされられたような次第。
「言葉にできる」は武器になる
舞台芸術という、自分が長く関わってきたジャンルで言えば、もともと
「言葉では表しきれないもの(情念)を自らの身体を通して表現する」
ことを(自ら創作するにしろ、人様の創ったものを再現するにしろ)専門にしてきているわけで、それをテーマに論文を書くということは、河童が自ら陸に上がるようなものなわけだ。
ある意味、自殺行為に等しい。
ただ、自分から他者に何か(特に感情のような抽象的で実態のないもの)を伝えようとした場合、それをどこまでどう言語化できるかは、コミュニケーションの成果に大きな影響を及ぼすのは、ほぼ間違いない。
実際、自分が発声や歌を教える際に、(上手い下手は別として)クラシック・バレエやジャズ・ダンスのレッスンを6年以上(ほぼ毎日)レッスンを受けていたことや、同じようにタップ・ダンスのレッスン経験があったり、ブライダルに限られてはいても実際MCとして仕事をした経験があることが、ダンサーやMCを仕事にするような方と共通言語を持っているという点で、効率良く伝えることにどれだけ役立ったか・・・。
「言葉にできる」は武器になる、のだ。(あの本はまだ読んだことないけど・・・。)
しかも論文の場合は、それを紙面に落とし込むんだから、それはもう・・・しんどいに決まってる。とほほ。
あとは、前期、後期それぞれの筆記試験の緊張感。

今じゃ文章作る場合はほとんどPCのワープロで、文字を書く機会がめっきり減っている上に、
試験の答案記入は鉛筆である。
いや、あの経験は大学院で学ばなければまずしないで残りの人生すぎていってしまっただろうから、物凄く良い機会だったと心の底から思う・・・。
紙と鉛筆は偉大だ!
論文を書く上で「言葉にする」前に頭の中ですべき作業
これが今になって見れば、「もっとああすれば良かった」「こういうやり方があったのに」と悔やまれるところではある。
とにかくボリュームがボリュームだけに、(おそらく家を建てるのと同じで)いくら手書きではなくPCを使った作業で後から修正可能だとは言っても、あるタイミングを逃すとそこから先はまさか土台からもう一度全てやり直すわけにはいかないのが現実。
こればかりは、修士論文の口頭試問の際にいただいた
「論文は、ある意味、自分が成長してきた後に残る脱け殻みたいなものだと考えたほうが良い。」
というお言葉の通り。言い得て妙である。
そんな反省とも後悔ともつかないような思いを抱きながら書店をぶらついていた先日、こんな本を見つけ、思わず買ってしまった。
いや、これ面白い。
この番組、全部観て観たい。
「自ら問いを立てる」ことや、その研究手法をどう探すかという視点、その自由さ加減がなんとも言えず、痛快である。
まだ読み終わってはいないんだけど、うわぁ、これ、修士論文書く前に読みたかった。。。
奇跡の論文図鑑 | ||||
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