ミュージカルは娯楽か?芸術か?
まぁ、答えの出るはずもない問いではありながら、ずっと抱えているこのお題。
というか、じゃあ「芸術とは何なんだ?」と考え始めれば更なる深みにハマっていく・・・。
ある日ある時、『The Hammerstein』という本の中でこんな一節を見つけた。
「ニューヨークの監修はストレート・プレイにもミュージカルにも足を運んだが、それぞれに期待するものは全く別のものだった。ニューヨーカーたちはユージーン・オニールの『偉大なる神ブラウン』も、ロンバーグとハマースタインの『砂漠の歌』も楽しんだ。しかし、前者は思索の夜であり、後者は笑って現実を忘れるためであって、その二つが出会うことはなかった。」
そうなんだよなぁ、現実を忘れるために劇場に足を運ぶ人もいれば、作品を通して人生に向き合う人もいる。
ただ、例えば最近の「ハミルトン」なんて、アメリカ初代財務長官の伝記でしょ?
かなりガチですよね、内容的に。
だから、ミュージカルもミュージカル・コメディーとしての立ち位置しかなかった時代とは全く違って、思索の夜も十分提供できるものであるわけで、作品の創り手側がその作品を通して何を伝えようとしているかとか、演じ手側がそれを汲み取れているかとか、観客がそれをどんなスタンスで受け取るかによってどっちにも転ぶ可能性はあるんだと思う。
「ウィキッド」なんて、めちゃめちゃオトナな内容で、特に仕事を通して社会と対峙する女性にとってはものすごく現実味のある話なんだろうなと思ったものだった。芸術と娯楽の境界線を見事に渡り歩いているのかも知れない。
あらためてソンドハイム
で、ハマースタインに関する本を読んでいて、彼がソンドハイムの養父であったことを知った。
ハマースタインが若き日のソンドハイムが書いた作品に対してしたアドバイスの話なんかも、彼らの作品を通しては知り得ないことで、“本を読むこと”の大切さと面白さを再認識したりした。
そんなこんなで、1994年のトニー賞でソンドハイムの「パッション」が受賞したものの、一切賞を取れなかったディズニーの「美女と野獣」の方がはるかにチケットの売り上げを伸ばしロングランを続けた現実についても、今更ながら考えた。
ソンドハイムの作品は明らかに「思索の夜」だよなぁ。
そうしたことを読んだり調べたり考えたりしてみると、「サウンド・オブ・ミュージック」や「南太平洋」「王様と私」には何かのめり込めないものがあって、「オクラホマ!」や「回転木馬」とはどこか違うよそよそしさを感じた理由もわかる気がするし、あらためてソンドハイムの作品を一つ一つ丁寧に紐解いてみたいと思うようになった。
ここのところ「Into The Woods」をよく聴いている。
「なんか、深い。深いよなぁ・・・。」
などと、思索の時を過ごすのだ。これってある意味“至福の時“なんて思いさえする。
これってぶっちゃけ自分の年齢的なものとも密接に関係しているのだろうと推測していて、
「なるほど、ここに到達できればこの年齢の男性でも劇場に足を運ぶのかも知れないな。」
なんてことも考える。
何たってコマーシャル・ソングは元より、かつては軍歌なんてものまであり、明らかに音楽の力が人を扇動したり誘導したりできるんだから、ミュージカルを単純なエンターテイメント扱いで終わらせるのはもったいないのである。
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