「劇団四季に入りたい」
ミュージカルを教える立場にいると、その世界を目指す人たちから聞く言葉で圧倒的に多いのが、
「劇団四季に入りたい」
言うまでもなく、ディズニーを始めとした大作ミュージカルを日本全国で展開(?)する劇団四季に入るためには、かなりハイレベルの歌とダンスのスキルが要求されます。
その一方で、演技に関しては全国の小学校などを中心に展開されている「美しい日本語教室」や、さまざまなテレビ番組の密着取材等で取り上げられることの多い四季メソッド、「母音法」のようです。
ただ、個人的には「母音法」は劇団四季のメソッドの両輪の片方であって、もう一方なくしては方法論として完全形ではないと常々感じているので、今日はその点について書いてみたいと思います。
それに、なんてったって“劇団”(=劇を上演するために人々が団結する集団)ですから、こうした演技や台詞に関することに興味を持てずに劇団四季を目指すことは、そもそも何かがズレているような気がしてならないのです。
ただし、これはあくまでも個人の意見、考えであって、決して「これが正しい」とか「あれは間違ってる」というようなものではありません。
母音法とは何か?
・見える聞こえる芝居の基本
自分が一番最初に教わったのは、
「見える、聞こえる、芝居の基本」
という言葉でした。
これにはそれぞれ二つの意味があって、まず「見える」については、
- 物理的に見える
- 心理的に(そう)見える(=信じることができる)
の二つ。そして「聞こえる」については、
- 音響的に聞こえる
- 心理的に(そう)聞こえる(=信じることができる)
の二つを意味します。
どういう意味かというと、例えばいくらいい芝居をしていても舞台が真っ暗だったり、緞帳が上がらずに芝居を続けたら、
1.観客は物理的な理由で作品を見ることができない
次に、少々乱暴な説明ですが、演じている役者の身体表現が拙いせいで「とても貴族には見えない」ようなことがあれば、
2.観客は、登場人物を心理的に(そう)信じることができない
ということが起こります。
同様に、「聞こえる」に関しても
例えいくら素晴らしい戯曲を演じていたとしても、役者の声が客席に聞こえないほど小さかったり、滑舌が悪かったり、あるいはマイクを使用している時になんらかの電気的トラブルで声が拡声されなかったりすると、
1.観客は音響的な原因により、セリフを聞き取ることができない
わけです。
その一方で、「見える」の時と同様に、役者の語る台詞の抑揚が不自然だったりすれば、
2. 登場人物がそう感じているようには聞こえない(=観客は信じることができない)
とうことが起こります。
これをまとめてみると、「見える」「聞こえる」のどちらも、
1.は作品中に書かれている台詞を“情報として確実に観客に伝えること”
2.は作品中に描かれている登場人物の“感情(情念)を演出に従って正しく観客に伝えること”
とまとめることができると思っています。
つまり、「見える、聞こえる、芝居の基本」という言葉は、
役者たるもの、まず観客に対して戯曲を観客に届けるためには、
情報として確実に、かつ感情(情念)を正しく表現できる術を持つことを学ばねばならない
「この二つを観客に保証できるようにならねばいけない」ということだと理解していました。
そして、その“情報”として確実に届けるためのスキルが「四季メソッド」として有名な母音法や開口・発声というものなのです。
・句読点
そして、そうしたスキルを身につけるためには具体的な作業レベルに落とし込んで、繰り返しトレーニングできるようにしなければいけません。
そのために、
「まず、台本の句読点を全て取った状態で台詞をノートに書き写せ」
が次に教わったことでした。
句読点はあくまで読み書き言葉のためのものであって、人間が日常的に口語で会話をする時には存在しないものです。
いわゆる“視覚情報”なわけです。
なので、全ての台詞を句読点をつけずにノートに書き写す。
(実はこのことが劇団四季の方法論のもう一つの重要な柱である「折れ」というものにも繋がっていくのですが)
そして、その横に音声として母音だけを抜き出して書くのです。
「僕は」→「オウア」のように。
(ちなみに自分はローマ字にして書き出していました。これは自分なりの工夫です。)
日本語の場合には母音はア・イ・ウ・エ・オの五つしかなく、言葉を発音する際に子音だけで成り立つ音というのは(一部の無声音を除いては)ないので、
母音をクリアに発音できれば、情報としての台詞はかなりの確率で観客の耳に届けることができる。
ということになります。
※ただし、これは最初に説明した「見える、聞こえる」の話で言うと、あくまで情報としての部分です。
開口発声とは何か?
さて、そうした母音法を頭でわかってノートに書き写したところで、実際の舞台に立って声が出なければ役者としては役に立ちません。
ましては、現在の劇団四季の場合ほとんどの作品がロングラン。
つまり、1週間に8回〜9回の舞台を全力投球で務めても持ちこたえられる声が必要とされるわけです。
そのための作業レベルでのトレーニング法が「開口・発声」と呼ばれるものです。
・腹式呼吸
今はミュージカルといえばほとんどの舞台でワイヤレス・マイクが使われているようです。
マイクを使えば小さな声も大きくできます。
ただ、
感情的にたかぶった時に声が小さい人はまずいないでしょう。
しかも、ミュージカルの場合には作曲家によって書かれた音楽が高音を要求していたり、フォルテのような強い音を要求されたり、楽譜上に書かれたものを再現する責任があるのです。
それを2時間3時間の上演時間、週に8回9回と言う上演回数を毎月毎月重ねていく・・・
それに耐えられるだけの身体作りが必要で、声をコントロールするためには呼吸をコントロールすることが必要となってくるわけなんですね。
個人的には“腹式呼吸”という名前はあまり好きではないんですが(横隔膜というのは一種トランポリンのような円周のある膜で背中部分にも広がっているので)、一般的にはこの名前が広く使われていますし、劇団四季でも“腹式呼吸”と呼んでいました。
手で拍子(カウント)を取りながら、「4つで吸って8つで吐く」とか、「2つで吸って16で吐く」というように、長い台詞や歌のフレーズにも持ちこたえられるように呼吸のトレーニングを日々繰り返すということが役者としてのトレーニングの基礎の基礎というわけです。
(実はこれも、劇団四季の方法論のもう一つの柱、「折れ」のところでも重要になってきます。)
・長音、連母音、連子音
さらに、台詞を“情報として”正しく観客に伝えるために、長音・連母音・連子音をチェックして練習するという作業が待っています。
まず、長音とは「昨日」「お父さん」「大阪」のように、
母音で書き出すと二つの母音でも、口語で発音する時には長い音として発音するもの
のことです。
「昨日」を母音だけ書き出すと、「イオウ」ですが、音声で発音する場合には「キノー」と言いますよね?
これを母音にすると「イオー」となります。
次に連母音というのは、子音を伴った文章の中でも母音同士が隣り合うケース。
連子音というのは、子音同士が隣り合うケースのことです。
「昨日、お父さんと大阪へ行った。」
今、この文章をローマ字にしてみると、
「KINOU/OTOUSANTO/OOSAKAE/ITTA」
赤文字の部分が長音、スラッシュ(/)の部分が連母音、青文字の部分が連子音です。
こうした部分が、普段の日常会話では特に気にせず何気なく発していて気がつかないけれど、舞台上で台詞として発した場合には音として聞き取りにくくなる可能性が大きいところ、つまり観客の耳に“情報として確実に”届かない可能性がある部分だということです。
ここを徹底的に潰していく。そうすることで「見える、聞こえる、芝居の基本」の中の、“情報として確実に”伝えることを観客に保証できるようになるのです。
折れとは何か?
・意思と意志と意識
「句読点は読み書き言葉のためのものであるから、まずはそれらを取っ払ってノートに書き写す。」
それと並行して、母音を書き出し、母音を確実に音として発声できるように訓練する。…これが“母音法”の第一歩。
その次にやるべきこととして教わったのが、
「まずは、可能な限り台詞を一息で語ってみる。」
ということでした。
これ、どんな意味があるのかというと、
通常、僕たちはひとつの意思をだれかに伝えようとする時、その意思の塊を基本的にはワンブレスで喋るという考え方に基づいています。
ボクが例え話で良く出すのが、
女子高校生がマックで友達と、たわいもない話をしている時には、
「昨日〜、帰りに○○とばったり会ってぇ〜、超久しぶりでマジ驚いてぇ〜…」
と、合間合間に息継ぎしながら喋っていたとしても、
店から出たところで友達が車にはねられ、救急車を呼ぼうとかけた電話で、
「今ぁ〜、友達がマックの前で轢かれてぇ〜、超血が出てて、マジ痛そうでぇ〜」
とは言わないでしょう、ってことです。
「今友達がマックの前で車に轢かれちゃったんです!」
ぐらいワンブレスで話しますよね?きっと。
伝えようという意思がはっきりしていれば、そうそう話の途中で何度もブレスはしないだろうという話です。
この意思(意志、意識、感情)の方向性が変わる時を、劇団四季では“折れ”という言葉で表現しているのです。
(少なくとも、ボクはそう理解しています。)
つまり、台本上のある台詞を一息で読んでみてどうしようもない違和感が生まれるところは、何かその人物の意識の方向性が変わる箇所であると判断できる、つまりはブレスをすべきポイントだったり、何らかの間があってしかるべきところだということで、もしそれが映像作品であれば、カメラが引いたり、寄ったり、スイッチングしたりするような瞬間だろうということです。
・スタニスラフスキーの論理的休止と心理的休止
このことは、最初“折れ”という言葉もそうだし、「お前の台詞は折れてない。」とか、「その折れは違う。」とか言われても、何だかわかったようなわからないような、実態のつかめない得体の知れないもののように感じたのをよく覚えています。
それが、ある日、スタニスラフスキーの「俳優修行」という本の中に出てきた“論理的休止”、“心理的休止”という部分を読んだ時に不意に、かつ妙に腑に落ちたのです。
この本、今は「俳優の仕事」というタイトルで全巻元のロシア語から日本語に訳されたものが出版されてますが、当時は、ロシア語→英語→日本語と訳されたもので、しかも抜粋に近いものだった(その時点では知る由もなかった)ようで、更に翻訳の日本語がかなり昔のもので読みづらいことこの上なかったことを今でも良く覚えてます…。
ただ、その中に出てくるこんな一文があって、
“ならぬ堪忍シベリア送り”
要はこの台詞のどこに“折れ”を作るか、この台詞のどこで“折る”かによって、この台詞を語る人物の情念が全く違うものになるというこが、その本の中で説明されていたのです。
それはそれは衝撃でした。
劇団四季では、“折れ”の位置をカギ括弧で記していたので、そのやり方で解説すると…
「ならぬ堪忍「シベルア送り
この場合、
「許すわけにはいかない。こいつはシベリア送りだ。」
となるわけですが、
「ならぬ「勘弁シベリア送り
という“折れ”にした場合、
「ダメだ、シベリア送りだけは許してやってくれ。」
という意味合いになる、と。
・最低時速の話
自分が役者として稽古場に立っていた頃、よく「もっと早く喋れ。ブツブツ切るな。」と良く叱られたもので、自分にしてみればめちゃめちゃ自分の感情に正直にリアルかつ丁寧に台詞を言っているつもりだったので、「そんなに続けてどんどん喋ってたら、自分にとってのリアルからかけ離れたものになっちゃうんだよぉぉぉ…!」と(心の中で)叫んでいたものでした。
ところが…
後にスタッフとして作品に関わるようになり、いわゆる演出家席側から稽古を観ていて、ある日突然、あの頃くらっていたダメ出しの意味がわかったのです。
それを自分なりの理論にまとめると次のようになります。
例えば、高校時代の話をとことんリアルにこだわって演じようと思ったら3年間かかります。
乱暴な話ですけどね。
「高校時代の話、聞かせてくれる?」
「3年かかりますけど、いいですか?」
って話です。
だから、高校時代の話を劇場という空間の中で2時間3時間にして見せるというのは、これも例えて言えば、
「皆さんが劇場来るまでは一般道最低時速40キロでしたけど、今からは60キロになりますんで、そこんとこひとつよろしく。」
みたいなことだと自分は理解したんですね。
だから、「もっと長い折れで喋れ」と。
ただ、ミュージカルの場合はおかしなところがあって、
「最低時速60キロ」って設定してた流れの中で、突然、
「あの人が忘れられない…」みたいなソロナンバーに2分も3分もかけたりする。
いきなりの20キロまで減速状態です。
いや、むしろ相対性理論じゃないけど、人間の思考や感情って実はそんな風に揺れ動いているものだからこそ、ミュージカルが(と言っても駄作は別)たくさんの人にヒットするのかも知れませんね。
特に現代のようにいろんなものがスピードアップしている社会においては、どんどん加速している世の中のスピード感と、昔から変わらない人間の内的感情のスピード感とのギャップが、ミュージカルの持っている速度感のバラツキ加減と絶妙にマッチしてきているのか知れません。
これは全くの自論ですけど、現役当時よく出されていたダメの意味が後になってやっと(というか突然?)理解できた瞬間でした。
「あの時にわかっていれば、もうちょっと上手い役者になれてたかも知れない…。」
と今でも時々悔やみます。(笑)
ノウハウか、ノウホワイ?か
ここまで書いて思うのは、劇団四季の方法論に限らず、
「ノウハウだけ追い求めててもなかなか変われるものじゃない」
ってことなのかなぁ、と。
大切なのはむしろ、“ノウホワイ?(know WHY?)”
何故、そのメソッドが生まれたのか、どんな目的のためにそれがあるのか、ってことを自分なりに突き詰めることでしょうね。
メソッドはあくまで手段であって、目的じゃないはず。
そこんところ見失って、手段が目的化してしまうと、
情報としては確実に伝わるけれど、感情(意思・意志・意図・情念)は全く伝わらない台詞になってしまいますよってことじゃないかと。
ね?どうでしょう?
コメントを残す