「私たちの疲労は仕事によって生じたのではなく、悩み、挫折、後悔が原因となっていることが多い。」デール・カーネギー
最近、「仕事」や「やりがい」、「生きがい」について考えたり、本を読んだりしてます。
何故か?それは…自分でも良くわかりません。(笑)
年齢的なこともあるでしょうし、昨年身内が亡くなったことも大きいような気がします。
「人間はどこから来てどこに行くのか?」
そんな、単純かつ壮大な疑問が自分の中にずっとあるので、そのことの周りに浮かんでは消える問いについて答えを探しながら毎日を送っています。
あなたはどうですか?
「自分は何のために生きてるんだろう?」

って考えること、ありますか?
「好きなこと」を仕事にすることについて
かれこれ15年ほど、ミュージカルを中心とした業界で活躍することを夢見る若者たちに教えることを生業としています。
その前は、自分が舞台に立ってましたし、そのうちの約半分は完全に専業の舞台俳優で、残りの半分は歌や演技の教えをやりながらだったので、世間で言う「好きなことを仕事にしていた」ことになるのだと思います。
そもそも、自分が専門に学んだ音楽(声楽)にしても、高校時代までは何のレッスン経験もなく(ト音記号さえ書けなかった)、高校の芸術選択は迷わず美術を選んでいたぐらいなので、趣味とさえ言えないレベルからのスタートだったことは確かです。
大学は「最後の秘境」と言うタイトルで本が出るほどの特殊な環境で、“就職”と言う概念さえ存在せず…。
全くと言って良いほど現実世界と向き合うこともせぬままに社会に出て、結局一度はいわゆる“就職”と言うものも経験しました。
が、結局はその仕事も辞して舞台の世界にフラフラと迷い込み、気がつけば舞台の上で霞を食いながら生きていたわけです。
当時を振り返ると、ある意味「フロー」の状態が続いたまんま日々を過ごしていたような、そんな気がします。
※フロー:人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態。心理学者のミハイ・チクセントミハイが提唱。
「仕事」とは思っていなかったんですよね、日々していた「活動」を。況(ま)してや「労働」などと思ったことはありませんでしたね…。
「好きなことで生きて行く」ために必要なのは何か?
自分はどうして“それ”ができたのか?
才能があったから?
自分のことはさておいて、プレイヤーとして、舞台スタッフとして、教育者としての立場・経験から言わせてもらえば、“センス”や“才能”と言うものは(特に芸術分野においては)やっぱりあるのだと感じます。
ただ、これも正直なところ「何が売れるかわからない」世の中(特に日本は)であるのも事実なので(笑)、「才能があれば“そこ”に行ける」のかは一概には言えないのもまた現実…。
ただ、教える立場になってよく思うのは、「どうしてもプロになりたい」と言う人たちに「何をもってプロとするか」を問うと、大体が「それだけで食べていける」を基準と考えていて、そこでふと(禅問答のようなのですが)、
「え、じゃあ、なに?君はお金もらわないと歌ったり踊ったりしたくないということ?」
みたいな、素朴かつ意地悪な疑問が湧き上がるのです。
ここ、意外と重要なとこだと思っていて、ここを見失うと、遅かれ早かれ壁にぶち当たるに違いないのです。
その壁はいろんな形で現れます。
壁の種類は人それぞれ、タイミングもバラバラですが。
内面を見つめることをしなくなり、自分の外側との関係で日々を送り始めると、ふと
「好きで始めたことが好きでいられなくなる」
そんな日が訪れます。前触れもなく。ある日、ふと気がつくと。

「好きなことを仕事にする」と起こり得る弊害です。
だから、「好きなこと」を「仕事」にしないほうがいいです。
それはどちらかと言うと、“Ricework”であって“Lifework”ではありません。
「芸術活動」とは言うけど、「芸術仕事」とか「芸術労働」とか言う表現はしないですよね?
これは別に舞台やエンタメに関わる人だけでなくて、全ての職種について言えることです。多分ね。
「美」や「芸術」と言う観点から、自分の「活動」に向かい合うことができると、見えてくる世界が変わるんですね。
その目と耳と感性を養わないと、「質」で感じるべきもの、知るべきものを「量」で計ることしかできません。
ま、もしかしたら、このこと自体、ある程度壁にぶつかって悩んだ経験を持つ人でないと、なかなか気づくことができないのかも知れないんですけどね。

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