「あらゆる行動には何か心理的なものがあり、心理的なものには何か身体的なものがある」スタニスラフスキー
ミュージカルの世界では、歌から入ってくる人と、ダンスから入ってくる人、そして芝居から入ってくる人、と出自はそれぞれさまざまだ。
3拍子揃った人というのは稀で、英語ではtripple threat(フットボールで、キック・パス・ランニングの3拍子揃った選手)という表現をするんだそうな。
自分がミュージカルの世界に入った頃は、「歌専(歌が専門、得意分野)」「踊り専(ダンスが専門、得意分野)」なんて言い方をしていた。
自分の場合で言えば、台詞はまるで「声楽家が歌うように」喋り(汗)周囲の失笑を買うわけだが、そもそも舞台上に「歌い手以外の何者かとして居る」こと自体ができなかった。
先輩たちからの叱咤激励を受けながら毎日稽古するわけだけど、元々一人でコソコソ(コツコツとはちょっと違う)練習して見事やってのけたいという妙なこだわりがある捻くれた性格なので、エドワード・D.イースティーという人の書いた「メソード演技」という本を買って勉強した。
(今、これを書いていて思い出したんだけど、高校受験の時とかも自分で自分の参考書を選んで買っていた。いわゆる受験塾にも通っていなかったから当然と言えば当然なんだが、あの頃メンターみたいな存在が側にいたら、学校の勉強ももっと出来が良かったかも知れない…。)
この本はなかなか良かった。勉強になった。
この本を通してスタニスラフスキーによるメソッドの存在を知り、そしてさらに「FAME」という作品に関わったことで興味が強くなって、未来社というところから出ていた「俳優修業」という本(1と2の2冊にわかれていた)を購入。
ところが、まぁこの本の読みにくいこと読みにくいこと…。
ストーリー仕立てになってるので普通なら読み易いはずなんだが、とにかく登場人物の名前(ロシアの名前)が覚えられない。
「えっと…これは誰だっけ?」の連続である。
さらに、日本語訳が古いので、読み進めていく上でこちらの脳が何度もノッキングを起こすのだ。
一方で、「これ現代の口語だと逆にうまく説明できないんじゃないか?」と思うような部分もあった。
「ならぬ勘弁シベリア送り」
というセリフがあって、これを
「ならぬ勘弁。シベリア送り。」
と区切ると
「許すわけにはいかない。シベリア送りだ。」
という意味になるが、
「ならぬ。勘弁シベリア送り。」
と区切った時には、
「それはダメだ。シベリアに送るのだけは許してやろう。」
と、全く逆の意味になる。というものだった。
これは正に「目から鱗」だった。
“論理的休止”と“心理的休止”についての部分も、
「おぉ、これは正に“折れ(劇団四季のメソッドで本当は母音法より重要だと自分では思っているもの)”のことではないかっ!」
と興奮したのを覚えている。
それから何年も経って、実はその時に読んでいた「俳優修業」はスタニスラフスキーの著書を一度英訳し、それを更に和訳したものである上に、一部はカットされているものであるらしいと知って愕然とした。
そして、ロシア語から日本語へと完訳された「俳優の仕事」が出版された時には真っ先に全巻買い揃えたのだった。
(こちらはなんと3冊にわかれていた…。)
俳優の仕事(第1部) | ||||
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俳優の仕事(第2部) | ||||
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俳優の仕事(第3部) | ||||
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相変わらず登場人物ロシア名に手こずりながら、まるでエベレスト級の山に無謀にもアタックするビギナーよろしく、挑んでは拒まれ…の繰り返し。今だに読んだ時の付箋がそのまんま貼ってあったりして、ふとそこを開いて読み返してみたりすると、既に読んだことがあるにも関わらず「おぉっ!」とか言って感動できるあたり、実にコスト・パフォーマンスの優れた本である…。
「スタニスラフスキー」と早口で3回言えないあなたのために…
「さすがスタニスラフスキーだ。」とは思うものの、現代人は忙しい。
しかも、「芝居やってます」というわりには意外と漢字が読めなかったり、本を読むのが苦手なんて人も少なからずいる。
そういう方にめちゃめちゃオススメなのが、鴻上尚史さんの「演技と演出のレッスン」。
これも同じく鴻上さんの著書「発声と身体のレッスン」を読んだ後にパラパラと流し読みしたことはあったものの、じっくり読んだことはなかった。恥ずかしながら。
いや、いい本だとは思いましたよ、えぇ、もちろん。ただ、やっぱり流れは上流の方が水が澄んでいるという考えのもと、歯が立たないくせに「俳優の仕事」にしがみついていたのかも知れない。
ところが、自分が演じ手ではなく、若者たちに演技についても伝える立場になってみると、歌以上にそれ(伝えること)が難しいことに気づき、何か参考になるものはないものかと探す羽目になった。
とにかく「え?いや、そんなことは言ってないだろ…。」と心の中で呟くような出来事が頻繁に起きるのだ。
「人って同じテキスト読んでても、ここまで捉え方が違ってしまうものなのか!?」
演技について質問したり提案したりする度に、そう驚かずにはいられないほど目眩く世界。(笑)
かつて劇団の演出家が「演出家っていうのはな、筋張り職人なんだ。」とよく仰っていたが、もしかしたら、相手がある程度のキャリアやセンスを持ち合わせるプロだから、“職人”なんて渋カッコいい存在で居られるのかも知れないとも今は思う。
ビギナーの集団ではそうはいかない。何しろ人数やら時間やら、演出と演技指導とを同時進行せざるを得ない諸条件が目白押しなのだから。
こういう時の自分は、「交差点の真ん中に飛び込んで、そこで笛を吹きながら両手をブンブン振り回して滝のような汗を流し、必死に交通整理をする新米のおまわりさん」がイメージとしては一番しっくりくる。
そうした状況下で
「『俳優の仕事』という本が実に素晴らしいから是非お読みなさい。」
偉そうに言ったところで、果たして何人の人が目の前の汗だくで赤い顔をしたオジさんの言葉をそのまま信じ、その本を手に取るだろう?
「うわっ、たっけぇ!マジ高くなぃ?この本。ありえないっしょ。え?しかも3冊?いやぁ〜、ないない、ないよねこれは。ありえないし。」
なんて会話が繰り広げられた挙句、「俳優の仕事」というタイトルも、「スタニスラフスキー」という舌を噛みそうな名前の人のことも記憶の遥か彼方に流されていくに違いない。
しかし、それで諦めてはいけない。諦めてはいけないのだ。
自分の体験、経験やそこで学んだもの、本やその他の資料から得た情報を、もっと噛み砕いて、わかりやすい例をあげて、例え話を通して、目の前の若者たちに伝道することこそ、自らの使命なのであるからして。

信じるものは救われる。火の無い所に煙は立たな…いや、これは違う。
伝える側も伝えられる側にとっても、スタニスラフスキーのメソッドについて、この上なくわかりやすく受け取れるものとしては、鴻上さんのこの本はベストだと自分は思う。
“俳優の仕事は「作者の言葉を伝える仕事」”
かつて劇団の演出家は、「役者は、役に己の肉体を貸し与える仕事なんだ。」なんて言い表し方をしていた。
ここにも共通したものを感じる。
まずは作品。とにかく作品。
手前(てめえ)を見せるためにやるんじゃない。作品のメッセージを伝えるためにそこに居る。

鴻上さんは、俳優を「技術職」だと書かれている。これにも賛同。(個人の)感情だけじゃできない仕事。まさに。
“演技とは「考えること」と「感じること」を両立させること”
激しく賛同。
劇団時代、とある作品の稽古中、確認したばかりの段取りを芝居で熱くなりすぎた先輩がすっかり忘れ、適役の先輩の持つ竹の棒に顔面から激突。鈍い音がして飛び込んだ先輩の鼻がひん曲がり、稽古場の床中に鮮血が飛び散った場面を思い出す。
小学校時代、同級生の平野君が夏休みの自由研究で発表した「アイスクリームを揚げる」っていうのがよみがえった。
確か薄切り食パンか何かでアイスクリームを包み、それを油で揚げるんだったと思うのだけど、とにかくアイスクリームを高温の油で揚げることが可能だという点に驚愕した。
熱さと冷たさ。冷めた興奮、高揚。
これこそが舞台上の役者に必要とされるもの。
さらに鴻上さんは、
こうした技術の獲得のためにとても有効なのが「正しい発声」と「スタニスラフスキー・システム」
だと書かれている。
ね、劇団四季のメソッド(方法論)も「開口発声・母音法」と「折れ」でワンセットなのよ、両輪なの。
どちらかでだけでは成立しないこと。
さらに重要なのは、これらは手段であって目的ではないということ。
手段、つまりは技術と言い換えてもいいんだろうと思う。
俳優は技術職、この理解と自覚の必要性を認識することがものすごく重要なポイントなんだ。
もしあなたが俳優(役者)、特に舞台を仕事にする俳優になりたいと考えてるんなら、一度はこの本を読んでみることを心からおすすめします。
演技と演出のレッスン | ||||
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今日も読んでくれてどうもありがとう。
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