マリア・カラスの想い出

何度でもぶりかえす病、マリア・カラス症候群

「私はマリア・カラス」という映画を観た。

非常勤講師をしている大学の先生方の懇親会の席上で、この映画のことを熱く語っている先生がいて、以前この映画の宣伝を見て気になっていたことを思い出したからだ。

ちなみに、この先生は芸高(東京芸大附属)から芸大のたしか楽理科を出た男性で歌い手さんさんではない。

クラシックを離れて久しいけれど、ことあるごとにマリア・カラスのことは思い出すし、たまに無性にカラスの歌声が聴きたくなる時がある。

ソプラノのアリアを聴きたいとかではなく、「カラスを聴きたい」のだ。

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マリア・カラス、その違和感とは?

そんなマリア・カラスとのファースト・コンタクトは高校時代、声楽を習い始めた頃に静岡の呉服町にあるすみや(地元ではメジャーな楽器店)で買ったLPレコード「魅惑のオペラアリア集」(東芝EMIだったと思う)の中に入っていた「カルメン」の“ハバネラ”だった。

第一印象は、「変わった声の人だな・・・。」

当時は、「フランス語をギリシャ人(カラスがアメリカ育ちだということは後から知った)が歌ってるからこういう発音になっちゃうのかもな。」と思っていた。

実際、当時の東ドイツの歌手が歌うイタリア語とかは、かなり不思議な発音で違和感があった。例えば、テオ・アダムが歌う「フィガロの結婚」の“もう飛ぶまいぞ、この蝶々”なんて、「え・・・これ、本当にあのテオ・アダム?」とか思うほど得体の知れないものになっていた・・・。

後にカラスとディ・ステファノが共演する「ランメルモールのルチア」ライヴ録音を聴いて、ソプラノ歌手としてのマリア・カラスのスゴさを知った。「ライヴでこれができる人間がこの世に存在するの・・・!?」ってほどの衝撃だった。あれほどの衝撃は今だに感じたことがない。

ただ、マリア・カラスの師匠であるイダルゴ女史の元にはその後とてつもない数の弟子が集まったらしいが、そこから第二のマリア・カラスは出なかった。

ウィーンでレッスン受けた時に、最初に先生に言われたことを思い出す。

「いい先生なんかいませんよ、いい生徒がいるだけです。」

本当にそうだと思う。

ガリレオ・ガリレイの言葉

「誰かに何かを教えることはできません。自ら気づくことへの手伝いができるだけです。」

が座右の銘の自分としては、言い得て妙、まさしくマリア・カラスは「自ら気づくことのできる人」「いい生徒」だったに違いないと思う。

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女優としてのマリア・カラス、そのスゴさ、本物感

最初のカラスが「ノルマ」とか「トスカ」じゃなくて「カルメン」ってところが、これまた妙といえば妙なところなんだけど、後にマリア・カラスが女優としていかにすごい人であるかを理解し始めた頃に、舞台でカルメンを演じない理由をインタビューで訊かれたカラスが、「私のイメージでは、カルメンは動より静であって、動かない女なのです。でも、それではオペラの(舞台上の)登場人物としては成立しないでしょう?それが、私が舞台でカルメンを演じない理由です。」みたいなコメントをしていてシビれまくった記憶がある。

カラスの演劇性については大学時代にこれまた強烈な思い出があって、当時芸大でイタリア語を教えてらした若桑みどり先生(本来の専門は主に西洋美術史)が、ある日の授業でヴェルディの「椿姫」にふれ、「ヴィオレッタは誰が一番か?誰のヴィオレッタを聴くべきか?」と質問なさったことがあった。

おそらくみんな、いろんなソプラノ歌手のことを思い描きながら答えあぐねていたんだと思うのだけど、その無言の静寂(?)を切り裂くように、若桑先生は「カラスです。」とズバリと仰って、その後に何故カラスがベストであるかについて自論を展開して下さった。

それによれば、ヴィオレッタは劇中で「もう遅いわ(手遅れだわ)。」というセリフを3回(4回だったかも知れない)口にする。

その台詞を、「毎回きちんとその状況におかれたヴィオレッタの内面を表現するものとして、違うものとして、発しているのはマリア・カラスただ一人である。」というのである。

(記憶が正しければ、だけど、テバルディのヴィオレッタなんかボロクソに言ってたような気がする。)

これは後に、映像でマリア・カラスのトスカ(コヴェント・ガーデンでのティート・ゴッビのスカルピアと演じてる有名なやつ)と、レナータ・テバルディのトスカの両方を観た時に、本当に実感できた。

カラスのトスカは、スカルピアとのやり取りの最中にテーブル上にナイフを見つけ、最終的にスカルピアにその刃を突き立てるまでの心の動きが、まるで編集を施され完成された映像作品の投稿人物のようにこと細かに伝わってくる。一挙手一投足が「物語っている」のだ。

反対にテバルディのトスカは「おいおい、そりゃないだろ。」ってほどいきなり、もしくは「最初から刺すつもりだったんじゃ…。」ってぐらいの勢いでグサリといくのだ。

これまた後にマリア・カラスを題材にした「マスタークラス」ってストレート・プレイがあって、当時確か劇書房から出版されていた脚本を買い、読んだんだけど、日本では黒柳徹子さんがそれをおやりになって、黒柳さんは嫌いじゃないんだけど、カラスを黒柳さんというところがどうしても生理的に整理がつかず(洒落じゃないです)、結局劇場に足が向かなかった記憶がある。

アーテイストが魅了されるマリア・カラス

アートに関わる人々が、オペラ歌手という概念を超えたマリア・カラス個人の情熱やカリスマ性、芸術性、アーティストとしての生き様に魅かれることはものすごく納得できる気がする。

「ボヘミアン・ラプソディー」が話題になっているクイーンのフレディー・マーキュリーにも通じるところがあるような気がする。

トム・ハンクス主演、デンゼル・ワシントンが共演していた映画「フィラデルフィア」のカラスも忘れられない。

ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」の中に出てくるマッダレーナのアリア“La mamma morta(亡くなった母が)”が流れるあの映像には言葉で言い表せないものを感じた。

あぁ、カラスが聴きたくなっちゃったな。

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