“やりたい人”と“やるべき人”
twitterで“生まれつきの才能”についての質問をいただいたんですが、とても書き切れなさそうな気がしたので、こちらで書きます。
ボクは元々、センスや才能という言葉を使うのはあまり好きではありませんでした。
何故なら・・・自分がコンプレックスのかたまりのような人間だからです。(笑)
小さい頃から音楽を学んでいたわけでもなく、大学にも浪人して入り、キリはないのでここではこれ以上書きませんが、要するにセンスや才能を持ち出されたら勝ち目がない人間だったわけです。
そんな自分が大学に入ったばかりの頃、こんなことがありました。
一つは、マイヤ・プリセツカヤという旧ソ連の名バレリーナが来日した時のこと。
テレビのインタビューで、
「日本のバレエ界をご覧になって、どんな印象を持たれますか?あなたの国とどんな違いがありますか?」
とアナウンサーから訊かれた彼女はこう答えました。
「そうですね、あなたの国ではやりたい人がやっている。私の国ではやるべき人がやっている。それだけのことだと思いますよ。」
バッサリ・・・。切れ味良すぎて、血も出ません。
ただ、候補者の家系を何代にも遡って身体的な条件等を調査して、国の予算と威信をかけて芸術家を育てようとする旧ソ連のような環境と比較するとなれば、当然と言えば当然の発言のような気もします。
また、ある時には、ミラノ・スカラ座という世界的なオペラハウスの引っ越し公演の出演者として来日していた、ピエロ・カプッチルリという名バリトン歌手が、
「声楽を学ぶ上で、オペラ歌手を目指す上でどんなことが重要だとお考えですか?」
というアナウンサーの質問に、
「一番大切なのは、指導者が目の前にいる生徒に対して『あなたには才能がない』ということをはっきりと助言してあげることです。」
と返答をしてました。
ここでもバッサリ・・・。切られたことにも気がつかない感じ。
一浪してやっと大学に入って、希望に満ちあふれた春を迎えた途端にこの手厳しい洗礼2連発です。
さらにその後、何年かしてミュージカルの舞台に立っていた頃、藤村俊二さんのことを書いた「おヒョイさんになりたい」という本を読みました。
そこで、藤村さんが元々ダンサーであったこと、海外でミュージカルを観て「これは“観るものでやるものじゃない”。日本人はミュージカルやるべきじゃない。」と悟り、ダンサーから足を洗ったことを知りました。
実際、自分も初めて行ったロンドンで、自分も出演していた「オペラ座の怪人」や、当時なかなかチケットが取れなかった「ミス・サイゴン」なんかを観て、「こりゃ観るものでやるものじゃないな・・・。」と感じました。
「器が違うよ、器が。」(汗)
今、現在の心境で言えば、
「センスや才能ってのはある。」
そう思います。
生まれつきの才能とは何か?
歌うことに関して言えば、“生まれつきの才能”というものは、いくつかの要素にわけられるのではないでしょうか?
- 楽器としての身体的条件
- 楽器としての身体をコントロールする神経支配
- メロディーの美しさやリズムの楽しさを心象に描くマインド
さっとこんな風に分けて考えてみたいと思います。
1.楽器としての身体的条件
歌うことは、身体を楽器として使うことですから、
「あなたの楽器がどんな楽器なのか?」
ということは重要です。
これがヴィオリンだったら、例えば大金を積めば名器ストラディバリウス、ピアノだったらスタインウェイを買うことは可能ですよね?
でも、歌の場合そうはいきません。自分の持ち物が全てです。買い替えも効きません。一生モノです。
車に例えて言えば、ダイハツ・ミラもメルセデス・ベンツも大人4人乗せて100kmは出せます。
でも、操作性も揺れも音も安定性も安全性も、当然ながら違います。
声質、声量、声域、声に関していろんな要素がありますが、どれも「あなただけのその楽器で勝負」です。
それも一生メンテナンスしながら、です。
さらに厄介なのは、声を出すという一連の過程のほとんどが「目に見えない」ということ。
これがダンスなら、視覚的に違いを実感したり、確認したりすることがある程度できます。
2.楽器を操る神経支配
次にその楽器(身体)をコントロールすることにおいても、先天的に優れている人がいます。
楽譜は読めなくても耳で聴いたメロディーをすぐに覚え、口から発する声で音程やリズムが正しく歌える、とか。
そういう「耳が良い」人がいるんです。
発声器官に対する神経支配が行き届いている人
ピッチや強弱、ブレスのコントロール、そういった
声の要素を人から教えてもらうことなく楽々と変化させられる人。
弦楽器で行ったら運指や弓の使い方に当たるのでしょうか。
運転技術で言えば、(マニュアル車の)アクセル、クラッチ、ブレーキの絶妙な橋渡しと、スムーズなハンドリング。
3.音を心象として描くこと
「モーツァルトは共感覚の持ち主だったのではないか」という説があるそうです。
共感覚とは、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。 例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。
※Wikipediaより引用
モーツァルトにとって楽曲というのは彼の頭の中に、目の前に、既に出来上がっているもので、それを紙の上に書き写すことが作曲だったのかもしれません。
音というのは本来聴覚で受け取る(知覚する)ものですが、音楽家として現場で仕事をしているプロの人達と接していると、多分に(音というものを)視覚的なものや体感覚的なものとして捉えている(感じている)ような気がします。
色であったり、「鈍い」「鋭い」という視覚的な表現であったり、「あったかい」「冷たい」のように体感覚(触覚)に基づいた表現であったり。
実際、歌を教えていても、感覚的な部分を共有できない人と相対すると、こちらの発した「もうちょっと長く」が「何拍ぶん伸ばせばいいんですか?」の質問となって返ってきて、1拍、半拍という長さでもなく、その上そこには音色や強弱の変化も伴っているため、「ほら、色のグラデーションあるでしょ?ああいう変化をしながら・・・3拍目の裏(拍)には無くなってたいかな。」のように幾分視覚的な説明要素も加えてなんとかイメージしてもらえはしないだろうか、と身悶えすることになります。
そう考えてみると、臭覚に結びついている人は出会ったことがないような気がします・・・。
ボイトレを進める上で知っておくと良いこと
以上のようなことを考えてみると、歌に関して先天的な能力を身につけていない我々のような人間にとって、トレーニングを続ける上で心がけておくべきことは・・・
- 楽典、ソルフェージュのような音楽基礎力を身につける
- 自分の声が出る身体の基本的な仕組み(最低限のこと)を知っておくこと
- インプットの質と量を増やすこと(特にアートに関して)
といったようなことになるのでしょう。
前の記事に書いたフレデリック・フースラーの考え方で行けば、
すべての人には元々歌う能力が備わっていて、ボイストレーニングというのは、その能力を開放することにあります。
ただ、車の例えで書いたように、レストア(=復元)作業をしたところでスズキ・アルトがメルセデス・ベンツになることはありません。
アルトはアルト、ベンツはベンツ、です。
また、運良くベンツを手に入れたところで、運転が下手クソならば、維持費ばかりかかる日本の道にはデカすぎる車で終わりかねません。
たまに電車の中でものすごく美声の人を見かけることがあります。
男性で深い響きのある、開放された声の持ち主。
「あなた、声楽やってたら良かっただろうに。」なんて心の中で残念に思うことが結構あるんです。
やるべき人は意外とやってなかったりするのかも知れません・・・。(苦笑)
答えは誰も知らない
ただ、なによりも厄介なのは、自分が「やりたい人」なのか「やるべき人」なのか、
誰も答えを教えてくれない
ということです。
もし、神様が存在するとしたら、最後の最後、神様の前に行った時に審判が下されるのかも知れませんね。
ボクの中では、学生時代、一斉を風靡したフ○テレビ「オレたちひょうきん族」の“懺悔室”のイメージです。
「神様、ボクは自分のことを『やるべき人ではないのだろうな』と心のどこかで思っていたにも関わらず、結局歌から離れることはできませんでした。」
・・・できれば水をかぶらずにすむといいのですが。(笑)
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