役者の演技力を何で測るかという話

泣くのは役者か?観客か?

「演技をすることに慣れてしまうと、普通の表情ができなくなる。
パターン化された顔に自分の感情の方を当てはめるようになり、
本来あるはずのいびつな表情や、中途半端な表情ができなくなるのだ。」
恩田陸「チョコレートコスモス」より

以前読んだをまた読みたくなった。

が、探してみるとどこにも見当たらない。

ハードカバーの

「もしかしたら、ブック○フに持ってっちゃったんだったかな・・・。」

そう思うと人間勝手なもんで、余計に読みたくなって居ても立っても居られなくなる。

そんな時、Kindle電子書籍でないか探してみることにしている。

「あった!」

気づけば、考えるより先に「ポチッ!」としている。

Amazon、恐るべし。。

そうは言うものの、紙の本より値段は安いし、何と言っても、何冊持っても重さが変わらない

バッグにKindleiPad Airを放り込めばOKなんだから、その恩恵は計り知れない・・・。
こんな便利な世界をありがとう、Amazon様、Apple様。(笑)

即ダウンロードして読んでみる。

不思議なくらい、前に読んだ時と自分の中への入ってきかたが違う。

やっぱり意識というものは重要だし、歳をとることも悪いもんじゃないと、こういう時だけは思う。

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“演じる”ってなんだろう?

「演じるってなんだろう?」

ふとそんなことを考えた。

「真に迫る」という表現がある。

「いかにも本物らしく見える」

という意味らしい。

“迫真の演技”とかね。

“リアルな演技”なんて言い方もある。

劇団時代、尊敬する先輩から「リアルとナチュラルは違う。」なんてアドバイスをもらったことを思い出す。

“真に迫る”の使い方」として、こんな例が載っていた。

「なんで泣いてるの?」
「もう何もかも嫌になってしまったっていう場面の演技の練習をしていたら、役に入りすぎて泣き止むことができなくなってしまったの。」
演技だったの?本当に悲しんでいるのかと思う位に、真に迫っていたから、とても心配したじゃないか。」
「そんなに真に迫っていた?私、女優になれるかしら?」
※ことわざ・慣用句の百科事典(https://proverb-encyclopedia.com/sinnisemaru/)より引用

なるほど・・・。

はて、そこでまた素朴な疑問が湧き上がる。

「泣けば真に迫っているのか?リアルな演技なのか?
目から体液がほんの数滴分泌されるか否かで、演技力というものは判断されるべきものなのだろうか?」

「じゃあ、もし、同じ作品の違う日の公演で、役者が泣いているけど観客はほとんど泣いていない回と、役者の目には涙が分泌されていないけど観客のほとんど全員が滂沱の涙となっている回の、どちらが“いい芝居だった”と言えるだろう?」

泣くのはプロか?アマチュアか?

女優っていうのはな、芝居してる時には涙を流してて、客席に背を向けた途端にペロッと舌を出せるぐらいじゃないとダメなんだ。」

かつて、こんな言葉を演出家から聞いたことがある。

当時、イエス・キリストの最後の七日間を描いたミュージカル稽古をしていた。

作品の終盤、イエスを磔にしろと迫る群衆とその暴挙を鎮圧しようとする兵士のシーンで、とにかく危険なので段取りを何度も確認し、兵士に詰め寄る群衆の順番や、押し戻されて払い除けられるそれぞれの方向までを細かく決めて通し稽古に臨んだ。

件の場面、ボクの隣にいた先輩(女性)が段取りと全く違うタイミングで兵士役の先輩(男性)に向かって飛びかかった。

次の瞬間、飛びかかった先輩の鼻に兵士役の先輩がかまえている竹の角が突き刺さるようにあたり、鈍い音と共に稽古場の床が真っ赤な血で染まっていった・・・。

リアルだった。真に迫っていた。
(何と言ってもその先輩の鼻骨が折れるほどだったのだから。)

でも・・・

それでいいのか?

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泣くのは今日か?毎日か?

「稽古をすればいいというものでもない。
稽古をすればするほど、芝居がつまらなくなっていくときがある。
それは偶然の面白さに頼っていると、やがてその面白さが劣化して、ただの惰性になってしまうのだと先生は言う。
だから計算した演技しか生き残れないのだと。」
平田オリザ「幕が上がる」より

アマチュアだったら多くて数回の本番舞台が終わる。

でも、プロはそうはいかない。

長ければ数ヶ月、もしくは足掛け2年なんて上演作品もある。

それも東京公演を終えてしばらくしてから思い出し稽古して地方公演、なんてスケジュールはザラだ。

役者だって人間だから、その間、体調が悪い時もあれば、精神的に不安定な時もある。

でも、

お客さんはその日、その回の公演1回からしか作品のメッセージを受け取れない。

俗に言うリピーターで、同じ作品を何度も繰り返し観るお客さんもいるかもしれない。

でも、それだって全く同じものがその日その場で観られるわけじゃない。

じゃあ、そうした世界で役者はどういるべきなのか?

演じるのではなく、行動しなさい

「演劇では、感情を演じても、行動を演じても、また形象自体を演じてもいけない。
感情を追いかけず、正しく行動しなさい。
正しい行動は正しい欲求を生み出し、正しい欲求は正しい情感を呼び起こす。」
スタニスラフスキー(堀江新二他訳)「俳優の仕事」第3部より

自分が俳優として舞台に立っていた時、役者としての才能技量はさておき、自分は冷めた、計算高い役者だったと思う。

でも、後にいろいろなで学んだことの中には、そうした“感受性とは全く異なる原理※”に基づいて自分の演技実現させる方法があることを確信させてくれるものもあったりする。

「もし俳優が、感受性に富んでおり、感性的に動かされやすければ、(・・・)
最初の上演では極めて熱く演じても、3回目の上演では疲れ切って大理石のように冷たい演技になってしまうであろう。」
※青山昌文「美学・芸術学研究」より(ディドロ「百科全書」からの引用)

そうなんだよ、仮にもプロとして舞台に立っているのなら、

同じ作品に毎日毎日繰り返し出演して演技していても、出来不出来のムラがあっちゃいけない

はずなんだ。

「お前が泣くんじゃない、客が泣くんだよ。」

ってよく例に出される演出家の言葉だけど、これ本質を突いているとボクは思う。

どうすれば“心で泣ける”のか?

「そいつの内部ではずっと変わり続けていたんだ。
ある日突然変わったんじゃなくて、一滴ずつ変化を貯めてるうちに、ある瞬間外に溢れ出して、人目につくようになっただけだと思うよ。」
恩田陸「チョコレートコスモス」より

変化し続けることが大切、って、なんとも月並みな言い方だけど、結局のところそういうことかも知れない。

人間、誰しも不安定で、自転車みたいに

前に進まずにいる(=変化せずにいる)とバランスが崩れたり、倒れてしまう

ことになる。

演じるってなんだろう?」

その自転車のサイズはもちろんスタイルもまちまちで、その上ペダルの踏み跡には人によってクセがあり、気持ちがいいと感じるスピードや景色もまちまち。

感性ってなんだろう?」

世の中には、本当に「こいつ天才」って思える人がいる。

役者で言えば、何回同じ作品、同じ場面を同じ相手役とやっても新鮮さを失わない人、そして意思の力ではなく、内から湧き出る何かを完全放出してる人。(笑)

少なくとも自分は全くそう言うタイプではなかった、残念ながら。

「私は、何ものにもなれない自分に苛立っていた。
本当は何かを表現したいのに、その表現の方法が見つからない自分を持て余していた。」
平田オリザ「幕が上がる」より

 

「あたしがこの扉の向こうの世界を愛していることは確かだ。
けれど、ここは本当にあたしの場所なのだろうか。」
恩田陸「チョコレートコスモス」より

そうなんだよ、そうなんだよね。

演じるってことがなんなのか、その答えは出ないままなんだけど、自分にとってすごく大切な何かであったことは間違いない。

で、結局、「役者の演技力を何で測るのか?」ってことについても答えは出ないままなんだ・・・。

「偉大な俳優になるために必要なのは、演技をする自分を愛すること。」
チャールズ・チャップリン

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